安倍首相が5月14日の会見で一部の地域を除く緊急事態宣言の解除を発表して以降、西村経済再生担当相が連日のように、「気の緩み」を連呼している。
(2020年5月16日毎日新聞)
西村大臣は、解除が見送られている東京などの地域で、人出に少しの増加がみられたことを取り上げてこう言っている。
しかし、マスコミに「解除」という言葉が躍れば、人手が増えるのは当たり前だ。
これまでグッと我慢していた、その人にとって重要だったことを2か月ぶりにしてみようということくらい、必ずあるだろう。
(2020年05月16日時事通信)
ほら、こんなふうに。
緊急事態宣言が解除されていない東京で、総理大臣だって緩んでいるではないか。
大部分の人が、総理大臣程度に緩めば、街に人が2割やそこら増えるのは当然だ。
西村大臣がマスコミに出てきて「気の緩み」という言葉を使う時、必ずそれが感染拡大に繋がるという言い方をするところが気になる。
裏を返せばそれは、のちに再び感染が拡大した時に、「国民の気が緩みが原因です」と、言い訳に使われそうだからだ。
この「気の緩み」という言葉は、いつから使われるようになったのか。
ニュースを遡って調べてみると、3月20~22日の連休に、どっと人が出たことを「気の緩み」とマスコミが報道したのが発端のようだ。
では、国民の「気」はどう緩んだのか?
2月29日に安倍首相は総理会見を開き、「ギリギリの瀬戸際」「2週間が正念場」と称して緊張した面持ちで瀕した実態を訴え、全国一斉休校という思い切った手段を発表した。
ちょうど一斉休校と春休みがドッキングした形になり、春休み以降はどうなるのか?と世間が注目する中、安倍首相は3月20日のコロナ対策本部で、「休校要請の延長はしない」と宣言した。
これを受けて、多くの人が「瀬戸際」を脱したと理解したのは自然なことだ。
そしてその直後、陽気に恵まれた3月20~22日には、各地で多くの人出が見られた。
4月に入り、感染判明は増加しはじめ、これは連休の「気の緩み」によるものだったと、メディアを中心に語られるようになった。
安倍首相が緊急事態宣言を発令したのは、そのすぐあと4月7日である。
人は補償もなしに「ギリギリの瀬戸際」の生活を何か月も続けられるものではない。
手を洗う、マスクをするなどの個人防護については、気の緩みか否かを指摘されても仕方がないが、「人出」のようなマクロな視点で政府が「気の緩み」を指摘するのは、社会的に望ましくない。
気が緩んでいるかいないかは、人によって大きな温度差があるし、外見からはそれが分からない。
いま通りを歩いている人が、不要不急なのか、拠所無い事情があるのか、見ただけでは分からないということだ。
「気の緩み」が感染の原因であるかのような理屈に政府がミスリードすると、感染した人が「気が緩んだ人」扱いされる可能性もある。
緊急事態宣言中には日本のあちこちに、「自粛ポリス」なるものが登場したが、自粛が解かれると、今後は「気の緩みポリス」が誕生するのではないかと本気で憂いている。
「気の緩んでいる人のせいで感染が広がるのだ」と、政府の代弁者気取りの無法者が現れないことを願っている。
追記
真珠湾攻撃直前に、政府が国民の気の緩みを指摘していたという興味深い情報をツイッターのリプライから頂きましたので、追って紹介します。
今の政府の姿勢と、なんとなく共通点を感じますね。
「実戦さながらの猛訓練に民一億の”われ戦はんかな”の気魄は十分に昂揚されたがさて終了してホッとした弛緩の心がきざしてはいないだらうか」
1941年11月の読売新聞です。官憲が「気の弛み」などを言い出したとき、ロクなことはありません。https://t.co/r8DjFkXlbd
— 信濃太郎 (@Shinano_Taro) 2020年5月17日