文化庁が、あいちトリエンナーレへの補助金7800万円を不交付にすると一方的に通達した件について、これは国の検閲に通ずるものだとして、「表現の自由」について物議を醸している。
今回はこの一件の問題点を、表現の自由とは違う視点から考えてみたいと思う。
それは、今日(10月2日)、こんなニュースが飛び込んできたからだ。
(2019年10月2日朝日新聞)
このイベントに補助金が出されると意思決定された経緯には、「補助金採択についての審査委員会」というところで、きちんと熟議され「適当」との判断をされているということをまず確認したい。
では「不交付」という意思決定は、どのようなプロセスを経たのか。
文化庁によれば、騒動の後に「庁内部の事務協議」にて決定されたという。
簡単に言えば、担当役人が集まって決めたということだ。
どんな協議をされたのか。
「事務業務の中の打ち合わせで、通常の手続き通り、議事録は作成していない」
は?
常識で考えてほしい。
7200万円もの補助金を、それも有識者が審議にかけ「適当」と判断したものに関して、担当役人が秘密会議を開いて、勝手に出さないことに決めたというのだ。
そりゃ、有識者の先生の怒りはもっともだ。
しかも、のちになって役人が勝手に協議をし、有識者の結論を覆し、それに関して有識者らにはなんの一報もなかったというのだから、失礼極まりない。
そしてなにより、審議会自体を軽視した態度だとも言える。
「議事録がない」「記録がない」
これは現政権下では、もう日常茶飯事の当たり前の出来事になりつつあり、日々ニュースを見る私たちにとっても、珍しいことではなくなってしまった。
もはや、これを聞いてもあまり危機感を覚えない人が、世の中には増えていることだろうと思う。
表現の自由の侵害も、もちろん現政権下で非常に危うくなりつつある重要事項だと思うが、この「文書がない」には、それと引き並ぶぐらいの国家崩壊パワーがあることを忘れてはならない。
なぜ文書がないのか?
これを想像するのは、さして難しいことではない。
それは、こういう案件の背景には、いつも決まって官邸があるからだ。
今回の「補助金不交付」は、文化庁により発せられているものの、圧力をかけてそうさせたのは、萩生田文科大臣に間違いない。
萩生田氏と言えば、過去にも官邸の意を汲んで、メディアに圧力文書を送るようなことを平気でした人物だ。
「表現の自由」も「報道の自由」も、この人の前ではなんの意味も持たない。
今回も、官邸の意を汲んで、文科省下の文化庁に圧力をかけ、このような結果を導かせることは、いとも容易いことだったろう。
文化庁の役人は、「萩生田マター」として、補助金不交付を決定したのだから、そもそも協議なんかがあるはずもないし、話し合っていないものは議事録なんぞにもならない。
簡単なことだ。
そう言えば、似たような案件がもう一つあった。
「老後2000万円不足」問題だ。
金融のエキスパートたちが毎日何時間も熟議して、絞り出した試算値であるにもかかわらず、「国民に不安を与える」「政府見解と違う」という理由から、麻生大臣は受け取り拒否をした。
そもそもこの金融審議会は、麻生大臣が招集し審議させた案件であるにもかかわらず、だ。
では、有識者が熟議し導き出した結果が、「政府見解と違う」つまり、政府の思惑と違うものが出てきたら、それは却下するということか?
だったら、なんの為にそのような「審議会」が存在するのかわからない。
デタラメな総理に指名された、デタラメな閣僚の下で、役人がデタラメな行政を行う。
これが今の日本の現状だ。