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地方の「あきらめ」感に揺さぶりをかける候補者たち

宮城県選挙区から出ている石垣のり子さんの政見放送を見た。
参議院選では、今回から政見放送で「持ち込みビデオ」が可能になった。
これまで、政見放送と言えば、名前札を立てた机に座り、堅苦しく語るいわゆるアレを思い浮かべるが、持ち込みビデオでは、効果音を入れたり関連動画を編集したりと、かなり高い自由度で映画のように制作できる。

 

宮城県の石垣氏は、出身が地元のFM局のアナウンサーということもあり、政見放送での静かな音楽に声を載せるテクニックは、正直、素人とは一線を画したレベルの高さで、聞いて心地がいい。
さらに、そうした放送テクニックの高さだけでなく、内容もいい。

 

その中に、すでに決まったことに対する「あきらめ」と「ものが言えない」今の風潮を鋭くえぐる部分があったので、紹介したい。

「消費税は0でいい」
私がこう主張した時、信じられないスピードで驚きの声が広がっていきました。
あたかも「消費税は変えられない」と決まっているかのように
まるで「話し合う機会」すら奪われているかのように
当たり前のように決まっていることなんかあるのだろうか?
たった8年前、
私たち宮城県民は、「当たり前のことが当たり前じゃなくなる体験」をしたばかりなのに石垣のり子 政見放送  ←動画へのリンク

「政治離れ」や「投票率の低下」が言われる昨今、その原因の根底にあるのは、多くの人のこうした感覚だと思う。
「そこにすでにあるものは、変えられない」という、漠然としたあきらめ感。
また、それに対しての違和感を口に出した時の、周囲から受ける「反応」を深慮しすぎて言い出せない空気。
この現象は、都会よりも地方の方が顕著にみられるのではないだろうか。

 

そういう言論の閉塞感のある地方から、妄想的に大きな政治の話ではなく、人と人との関わりから問題を提起できる国会議員の候補が出てきたことは、静かな革命が起きているような予感をさせる。

 

なぜなら、当選者を1名しか出せない宮城県で、石垣のり子氏の対抗馬は、いわゆる土地の名主の血脈である現職18年目の自民党3世議員であるにもかかわらず、それを相手に新人である彼女が、互角の戦いをしているからだ。

 

もう一人、やはり地方選挙区に、同じような感覚を嗅ぎ取っている候補者がいる。
静岡県の徳川家広氏だ。
同じく、政見放送から気になった箇所を紹介したい。

例えば、原子力発電ひとつ取っても、日本国民のほとんどがもう嫌だと、危険である、恐ろしいと感じていると思うんですね。
でも、それを言うと「大人として恥ずかしい」とか「つまはじき」にされるんじゃないかっていう、恐怖があって何も言えないでいる。
経済に関しても同じですね。
景気も実際、非常に悪い。
けれども、それがはっきりとは言えない。
憲法もそうですね。
今のままで、何の不都合もないですし、今の私たち日本人の感覚というのは、日本国憲法に書いてある通りのところに落ち着きつつあるんですよ。
変える必要は全然ない。
でも、なんとなく変えなくちゃいけないような流れが出来上がって、逆らえない。
そういう、いろんな違和感を抱えた方達の声を届けたい。

徳川家広 政見放送 ←動画へのリンク

巨大地震の震源地と浜岡原発を抱える静岡県にとって、抑圧される原発への発言抵抗は殊更だろう。
「ものが言いにくい」「すでにあるものは、変えられない」という空気への抵抗感に歯向かう候補者が、遠く離れた宮城と静岡という、一見なんの関連性もない二つの地方から出現したのは、偶然ではないのかもしれない。
それは、この二つの県が、どちらも原発立地県であるからだ。

 

決まったことは変えられないという、思い込みの「あきらめ」、こんなことを言い出しては、「ヘンな人」と思われるかもしれないという、得も言えぬ周囲への勝手な「遠慮」が、どんどん流れに従うしかない閉塞感のある世の中を作る。
投票先を秘密にできる選挙だからこそ、日常では言いにくかった思いを「一票」に乗せることができるのだ。
やっと、その「代弁者」が出てきたということではないだろうか。

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