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安倍首相が映し出す「強者の快感」

「卑怯」という言葉が日本を覆っていく、そんな気がする。

 

7月7日中野駅、丸川珠代氏の応援演説に安倍首相が現れた。
「安倍ヤメロ」のコールが響く中で、冒頭3分くらいで丸川氏をほめそやしたあと、総理大臣としての自分のアピールをすること3分ほど、話題は憲法改正、年金の話と進んでいくが、とにかく聞いていて、「民主党時代よりああなった」「民主党時代よりこうなった」そういう表現が各所で聞かれる。
その伏線を回収するように、「党首討論、ご覧になったでしょうか?民主党の枝野さんはこう言ってました。いや、民主党ではもうありませんでした。立憲民主党の枝野さん、何回も変わるので分からなくなってしまいました」と言った。

 

で、驚くのは下の記事だ。

6日午後の滋賀県草津市での街頭演説。「野党の枝野さん。民主党の、あれ民主党じゃなくて今、立憲民主党ですね。どんどん変わるから覚えるのが大変」・・・同日夕の大阪市内での演説でも「この前、民主党の枝野さんと討論、民主党じゃないや」と述べた。
翌7日は、千葉県内と東京都内で行った計6カ所すべての街頭演説で同様に「言い間違い」をして、聴衆の笑いを誘おうとした。(2019年7月7日朝日新聞)

こういうのを、「持ちネタ」というのだろうか。
本人はそうとう気の利いた言い回しだとお気に入りなのだろう。
なんという程度の低さよ、眩暈がする。

 

そしてやっぱり「卑怯」というイメージにしかならない。
民主党というのは、すでに存在しない政治団体だ。
つまり、不正確なことを言っても、出るところに出て争う団体がもう存在しないのだ。
だから余計に言いたい放題になる。
首相のような、高みの極みにある人が、なぜそう卑怯になってまで、他者を叩く必要があるのだろうか。
それを「気持ちよい」と感じる層が、一定数いるのも間違いない。

 

日本人は、「卑怯さ」を嫌うより、「強い者」に惹かれる感覚の方が、より強くなったのではないか。
「強い者」の側に立ち、弱いものをともに叩くことで、本当は弱者であるはずの側の者も、仮想的に強者になったような気になる。

 

そういう社会で、パワハラをなくそう、セクハラをなくそう、ましてや、子供の世界のいじめをなくそうなんて、叶うはずがない。
強いものが弱いものを叩く。
叩かれたくなければ、強いものの側に回って、ともに弱い方を叩く、こうすれば自分が叩かれることはない。
こんな論理がまかり通っていないか。

 

最近では、安倍首相が悪いというよりも、そういうものを容認してしまえる社会にも問題があると思うようになった。

 

先日、歩きスマホの若い男性が、白杖を持つ全盲の男性とぶつかり、白杖がバラバラになり倒れたままの盲人男性に、蹴りを一発入れて立ち去ったという報道を見た。

 

どんな、地獄だよ。

 

強いものが弱い者を圧倒して成り立つ社会。
ここに多くの人が、心から疑問を持たない限り、幸せな社会なんて生まれないだろう。

 

だから、国会にこれ以上ないレベルの「弱者」を送り込むのは、革命的な意味があると思う。
それを優先的にやってのける山本太郎は、すごいと思う。
・・・って、また「れいわ新選組」のヨイショになってしまった。アシカラズ。

 

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