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「1人で死ねば」に思う、感情の劣化現象

川崎市で50代の男がスクールバスを待っている小学生を襲うという、痛ましい事件が起きた。
今、それに関するコメントが物議を醸している。

 

かなり早い段階で最初に警鐘を鳴らしたのは、
川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい
と題された藤田孝典氏のネット記事だった。

特に反発を買ったのは、記事の最後の部分である、

《社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。》

という部分であろう。

解釈力のやや足りない人たちに
『被害者はどうなるんだ』
という論調で、想像した以上に炎上し、叩かれた。

被害者を悼むのは、大前提に決まっている。
これは犯人への同情から出ている言葉ではなく、「止められなかったこと」を、今後も社会で生きていく人間のひとりとして考えていかなければならない方向性を示したものだ。

私は最初、この藤田氏の警鐘は、ネットで無責任に書き込まれる個人の投稿を指しているのだと思っていたのだが、後日、朝日新聞からこんな記事が出てきて驚いた。

川崎殺傷「1人で死ねば」の声 事件や自殺誘うと懸念も
キャスターやコメンテーターが口々に
(2019年5月31日朝日)

「1人で死ねば」の類似のコメントは、匿名のネット上のものだけでなく、テレビで放送された発言で、それも複数あったと知って、心底驚いた。

 

テレビと言えば、マスメディア中の「マス」なメディアだ。
色々な事情を抱えて生きている不特定多数の人々に、ほぼ無差別に発信される。
そうしたメディアが、たとえどんな前置きをしたところで、「死ね」と発信するのは正気の沙汰ではない。
・・・と私は思うのだが、今日日の日本では、こういうことに、さほど抵抗を感じない人が増えているということだろうか。

 

これは凄まじいメディアの劣化が、可視化された一例なのではないかと思う。

 

そして今度は橋下徹氏からこんな発言も出た。

元大阪市長の橋下徹氏が、フジテレビ「日曜報道 THE PRIME」に生出演。・・・
「やむにやまれず自分の命を断つときは、他人を犠牲にしてはならない。ちょっと言いすぎかも分からないけど、死に方というところを教育することが、僕は重要だと思う」と述べた。
さらに「他人を犠牲をするなんて絶対あってはならない。死ぬのなら自分一人で死ねってことはしっかり教育すべきだと思います」と主張。
(2019年6月2日スポニチ)

「死に方の教育」?
「1人で死ねって教育」?

 

これはいったいなんデスカ???
ここまでくると、発言の問題点がどうのこうのという次元ではない。

 

フジテレビだし、橋下氏だし、今さら・・・言われればそれまでだが、
これが、電波に乗って「放送」されているという現実は、きちんと見据えなければならないはずだ。

 

フジテレビじゃしょうがない。橋下だからしょうがない。で、スルーしてはいけない案件だと思う。
こういう人として劣化した考え方が、無差別にメディアによって垂れ流され続けば、それを常に耳にする人々の心も劣化する。
そして劣化したものに触れても不感症になり、そうしたことになんの思いも抱かなくなっていく。
じわりと恐ろしい話だ。

日本で劣化しているのが、政治だけではないことを目の当たりにして、なんとも言えない焦燥感にかられるのだった。

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