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「戦争」発言は、「言論の自由」なのか?

丸山穂高氏の「戦争で北方領土を取り戻す」発言を受けて、松井一郎・維新の会代表がちょっと気になることを言っていた。

 

会見で、記者から質問。
記者「(丸山議員が)発言されたことはもうお耳に入っているのでしょうか?」
松井市長「いや、全く知りません。それは、『言論の自由』なんで、どういう場所で、どう発言するのかはね、アレですけど。」

 

「アレですけど」、とは「よく分かりませんが」という意味だろうか。
文脈から察するに、
「丸山氏が、どこでどういう発言をするかというのは、本人の『言論の自由』なので、私には分かりません。」
という意味と思われる。

 

ここで、「言論の自由」という意味が間違って使われていることに、あなたはお気づきだろうか?

 

少し過去の話になるが、こんなこともあった。

TBS「NEWS23」に、安倍首相が生出演したとき、番組内VTRである「街角インタビュー」で、「アベノミクスで恩恵があるのは大企業ばかり。」「私たちには恩恵は来ない。」といった声が多かったことに、首相が生放送中に激昂するという珍事があった。
それについて、2015年3月の衆院予算委員会で質疑を受けたときに、安倍首相が、

「私の考えを述べるのは言論の自由」

と、答弁したことが、物議を醸した。

 

これについて、スガ官房長官も、
「総理大臣の地位にある者についても、当然憲法上の表現の自由は保障されている」
という、意味不明な見解を述べている。
どの行政組織が、強行的に総理大臣の言論を検閲するのだろう。

 

もう一つある。
2019年2月のことだが、衆院予算委員会で、安倍首相が「悪夢のような民主党政権」との発言をしたことに、岡田克也氏が反論したときも、同様に意味不明な「言論の自由」反論を主張している。

「自民党総裁として言論の自由がある」

このときは、「総理大臣」ではなく、「自民党総裁」と、立場を後退させたうえで主張している。
そこにはなにか、彼なりの「意味」があったのだろうか?
前回の失態で、「行政の長は、言論の検閲や弾圧を受けることはありませんから・・」とかいうレクチャーでも受けていたのだろうか?

 

これらのことを踏まえて、彼らに共通した勘違いというのは、「言論の自由」が
いつでも、どこでも、好きなことを言う」ことだと思っている。
本来、「言論の自由」とは、「好きなことを言える」→「検閲を受けない」という意味だ。
「検閲」とは、公の機関が強制的に、その表現について取り調べることだ。

 

あくまで、「権力の下での自由を保障した」条文であることを理解しない人が、議員となり、「自由、というのはワガママでいけませんね」みたいな論調で、法律や、あろうことか憲法に手を突っ込もうとしているのが、現在の日本なのである。

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