もはやシリーズ化してしまいそうな「道徳教科書にツッコむ」ネタ。
またしても、ちょっと物申さずにはいられない箇所を、教科書内に発見したので、やはり書いてしまおう。
出展は、東京書籍「新しい道徳1」(中1向け教科書)だ。
テーマ「働くってどんなこと?」
課題文の表題は「新しいプライド」
以下はあらすじとなる。
物語に入る前に、このお話の中心となる「新幹線の清掃員」という仕事についての予備知識が挟み込まれている。
テレビなどでもたびたび紹介される、到着と発着の短時間に、ものすごい手際で清掃するあの仕事だ。
これに関しては、すでにほとんどの人がご存知だろうと思うので、省略する。
物語は、60歳を過ぎた女性の「私」が、新幹線の清掃業務のパートをはじめたというところから、一人称の形で語られる。
ところが、「私」は、この仕事を「恥ずかしい」と感じていて、誰にも知られたくなかった。
家族も同様で、「私」がこの仕事をすることを露骨に嫌がる。
30歳の娘は、
「そんな仕事しかないの?」
と不満を言う。
(3歳になる孫の洋服を買ってあげるのは、いつも私なのに!)と「私」の心の叫び。
中堅商社を退職し、今は知り合いの食品会社でバイトをしているという夫からも、
「親類にばれないようにしてくれ。」
とまで言われる。
実際に仕事を始めてみると、同僚たちは単に掃除だけしているのではなく、困っている乗客を助けたり、荷物運びを手伝ったり、いわゆる「業務外」の接客にも積極的で、「私」はそうした業務外のサービスを通して、乗客から感謝されることに「喜び」を感じ始める。
そんななか、夫の弟の嫁、という人とホームで出くわし、あっけなく親類にバレてしまう。
知られてしまった・・・と、ヘコむ「私」。
が、しばらくして、その義妹から電話が来て、こんなことを言われる。
「働いているとは聞いてたけど、お義姉さんがあんな立派な仕事をしているとは思わなかったわ。」
「新幹線のお掃除はすばらしいって、ニュースでもやっていたのを見たの。ずっと家にいたお義姉さんが、あんなにちゃきちゃき仕事をする人だとは思わなかった。すごいじゃないですか。」
「私」はうれしくて、うれしくて・・・。
翌年、「私」は正社員になるための面接を受けるが、そこで自信を持ってこう言うのだ。
「私はこの会社に入るとき、プライドを捨てました。でもこの会社に入って、新しいプライドを得たんです。」
・・・と、物語はここで終わる。
いかにも世の中の片隅にありそうな、「イイ話」かもしれないが、どうにも腑に落ちない点がある。
知られてしまっただけで、あんなにヘコんでいた「私」が、義妹に「すごい」「立派な仕事」と言われただけで、天にも昇るような気持ちにまでなってしまうのは、あまりに節操がない。
物語として、全く感情移入が出来ない。
また、その義妹が、「あんなに立派な仕事」と褒めた背景も、それが本人の価値観ではなく、「ニュースでやっていた」ことが、根拠として重要な裏付けになっている。
さらに言わせてもらうと、おそらくそれは、ニュースではないだろう。
たぶん、ワイドショーとか情報番組の類ではないか。
2人とも、大人として何か「足りない」と、感じざるを得ない。
次に、与えられた課題を見てみよう。
いや、そこを聞くなら、「なぜ新幹線の掃除の仕事を、そんなに恥ずかしいことと思ったのか」を聞く方が重要だろう。
物語の中で、「私」は「他人のゴミや、他人の使ったトイレを掃除するなんて、あまり人様に誇れる仕事じゃないと思った。」と、思いを語っているのだが、どうしてそう思うのか、それは本当なのか?と問うことこそ、子供に考えさせるべき点だろうと、私は思う。
清掃業というのは、決して稀な仕事ではない。
少なくとも、ビルの数だけ清掃の仕事があるはずだ。
そもそも、清掃業を「恥ずかしい」と感じる前提が、私には理解できない。
こういう物語が成立するということは、日本では一般的に「清掃業は恥ずかしい」という共有感覚があるということなのだろうか?
この点に関しては純粋に疑問に思う。
恥ずかしい仕事を「誇り」を持つことで克服するのではなく、そもそも「恥ずかしくなんかない」ということを教えずに、なんの教育だろう。
課題では、この仕事について「誇り」探しを子供にさせるわけだが、よく見てほしい。
「私」が誇りを感じた理由というのは、「業務外のサービス」と、義妹の「テレビですばらしいって言ってた」というセリフだけではないか。
清掃そのものに誇りを感じているわけではない。
というか、無理に「誇り」なんか感じなくてもいいではないか。
仕事に「誇り」があるのなら、それに越したことはないが、別に「なくてはならない」というほどのものでもない。
例えば、「私」が孫にもっとかわいい服を買ってあげたいからバイトをするというのなら、それ以上でもそれ以下でもない。
みんないろんな事情で働いている。
それだけのことだ。
さて、この課題に「忖度回答」をするのなら、こんなかんじか。
「乗客に気を配って、親切にして、笑顔でお礼を言われることで、仕事への喜びを感じ、誇りをも持てるようになったのだと思います。」
さぁ、「誇り」がみつかったところで、課題2にいく。
ここで、「安全第一だと思います。」と言えるほど、空気の読めない子は、日本にはいないと思う。
流れからいって、「仕事に誇りを持ち~」とか「人に喜んでもらえる~」とか言わざるを得ない。
課題2に取り組むにあたって、課題1が伏線になっているあたり、子供が相手だというのに、かなりいやらしい。
中には、「あほくさ」と、その内容のバカバカしさに気付きながらも、「忖度回答」を模索してその場を「いい子」で切り抜ける、小利口な子供も少なからずいるだろう。
しかし、こうした訓練を学校でさせられるというのは、本当に残念だし、気の毒でさえある。
道徳は「答えのない教科」と建て前は言われている以上、哲学に近い、「考える過程に意味がある」学問であるはずなのだから、特定の答えに誘導するような行為があってはならない。
それでは「導徳」になってしまう。