前回の「武士道をつらぬいた、強くて優しくてかっこいいサムライ」の件を取り上げた後も、道徳教科書を読み続けているが、ツッコミどころが多すぎて、ちょっとこのテーマから離れられそうにない。
どうしよう。
このままだと「道徳教科書にツッコミを入れるブログ」になってしまうかもしれない。が、気になるものは気になるので、第二弾を書こうと思う。
第一弾はこちら。

今回紹介するのは、東京書籍の「新しい道徳1」という教科書から。
中学1年生向けだ。
題は、「権利と義務を考えて」
カンのいい人は、すでにイヤな予感がしているに違いない。
例によって、短いお話を読んで「考え・話し合う」形式の課題なので、そのテキストの「あらすじ」を紹介する。
といっても、原文も挿絵入りで3ページという、いたって短いお話だ。
クラス全員に投票用紙を配り、それぞれが思い思いの名を書いて、得票数で選手を選ぶ。
結果は、予想通り、小学時代から俊足で名が通っているA君がトップ当選した。
選挙が終わったところで、A君が「やりたくない」と言い出す。
ここでクラスのみんなから、A君は強い語調で責められる。
実は、A君は学期末試験の結果が悪かったので、今学期は勉強に専念すると決心し、英語塾にも通いはじめたところだった。
そういうわけで、放課後の練習もあるリレー選手には、なりたくなかったのだ。
ここまで読んで、
「じゃ、やんなきゃいいじゃん。クラスのみんなも、あきらめて他を当たりなよ。」
と思う私はヘンなのだろうか?
これは「ジレンマ」でもなんでもなく、「そりゃ残念」でクローズする案件以外のなにものでもないと思うのだが。
しかし、A君にはクラスのみんなから、なんとも理不尽な言いがかりをつけられる。
ここは、引用で紹介したい。
ヤベエよ、なんだよこのクラス。
自分の成績がだいじに決まってるじゃんかよ。
「許されない」とか言ってるが、いったい誰が「許さない」んだよ。
エゴイズムというのは、「他人の不利益を省みない」利己主義のことを言うが、A君がリレーに出ないと、「クラスのみんな」はどんな不利益を被るというのだろう。
選手になって勉強の時間が減れば、「また成績が落ちる」というA君の不利益のほうが、どう見ても圧倒的だ。
言ってることが、いちいち理にかなってない。
まぁ、中学生だからしょうがないという話なのか。
ここでA君も黙ってない。
こう言い返す。
中学生に、「一種の暴力」とか「尊重」とかいう言葉を無理に使わせてる違和感はさておき。
もっともな言い分だ。
クラス全員を相手に回し、ここまで己の考えをはっきり述べられるA君は、中学生ながら見上げた度胸と感服する。
「A君のエゴか、学級の暴力か、議論は結論の出ないまま時間切れとなった。」
という言葉で、短い物語は締められる。
そしてこの物語を踏まえて、考える課題が、こちら。
そもそもこの物語から、「権利」と「義務」を抽出することに無理がある。
A君が選ばれたのだから、選手になる「義務」があるとか言ってるクラスメートは、中学生レベルの浅い知識で屁理屈をこねているにすぎず、A君にはそんな「義務」はない。
なぜ、ここでこんな設問が出てくるのか、理解に苦しむ。
では出題者の立場に立って、話の流れから「正しそうな答」を忖度してみよう。
A君が「選手になる義務」と「断る権利」を天秤にかける、というあたりの考え方が模範的なのだろうか。
しかしそういう「模範的な」考え方を無理にすると、「権利を主張することが、集団生活のイベントに水を差す」という後味の悪さだけが残る。
まさか「後味の悪さ」を感じさせることこそが、キモなのか?
もしそうだとしたら、教育としてやり方があまりにえげつない。