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「中曽根合同葬に政府が弔意要請」で思うこと

「弔意を要請する。」
そもそも、そんなものを他人に要請すること、またそんなものに応諾することは人として可能なのだろうか。
悲しむ、惜しむ、悼む、或いは喜ぶ、こうしたことは人から要求されて応じられるようなことではない。
では、権力者、もっと身近に言い換えれば、上司や学校の先生といった立場が上の人から、そうした感情を要求されたら、多くの人はどのように立ち回るだろうか。

上の要請に逆らえない、体面を繕っておかないと後々芳しくないことになる、と察した上で、バカバカしいと思いながら、またはそう考えないように努力しながら、弔旗や黙とうをささげ弔意を示した体をつくるだろう。
今回の中曽根元首相の合同葬にまつわる一連の「通達」問題には、そうではない人も感情を共有しなければいけないという同調圧力が、国家という大きなレベルで露呈した一件だと思う。

 

そう言えば最近、似たようなものをどこかで見かけたな、と考えた。
これだった。

 

 

教師が児童の上履きを隠して逮捕される、という耳を疑うような事件だが、注目したいのは実はここではない。
画像中の左側に映っている、子供が書いたと思われる標語だ。

 

「仲間を信じ 力をあわせて 楽しい運動会にしよう!」

 

日本を離れて長い時間が経ったからだろうか。
この一見、心が温まりそうな標語にもやもやとした違和感を覚えた。

 

仲間を信じ、・・いいことではないか。
力をあわせて、・・これもいいことだ。
楽しい運動会にしよう、・・これとて悪いことには見えない。

 

しかしこの三文節をつなげて解釈しようとすると、実はそれぞれのつじつまが合わない。
仲間を信じることが、どう「楽しい運動会」につながるのか?
力をあわせて「楽しい運動会」ができるのか?
そもそも「楽しい」とは、誰にとって楽しいのだろうか?児童か?教師か?保護者か?

 

これには、先に述べた弔意要請の件と類似点があると思う。
要するに、主体である児童が楽しいと思うかどうかは、この標語の中では語られていないのだ。
傍から見て「楽しいテイ」の運動会を目指そうというのが、この標語の真意ではないだろうか。
こう解釈することで、「仲間を信じ」「力を合わせて」という文脈が生きてくる。
運動会を「楽しいテイ」にするために、みんなで一致団結がんばろう、とつまりこういうことだ。

 

最初から運動会が好きでしょうがない、という子はそれでいい。
必ず一定数そういう子供もいるはずだ。
そういう感情に物申すつもりは毛頭ない。
しかし、その一方で運動会が嫌いな子も必ず一定数いるはずだ。
そういう子は、「楽しい運動会」の機運を壊さないように、努力を強いられるわけだ。

 

たまたま目に付いたこの標語を、ことさらに悪く言うつもりはない。
教師が考えた標語を子供に書かせたのか、子ども自身が教師を満足させるような標語を考え出したのか、いずれにしてもこれと同様のものは、日本の学校生活ではよく目にするものであり、特段珍しいものではない。
しかし、こういうものに囲まれて育つ子供の多くが、大人になって「弔意を要請」されて、それに違和感を感じることが出来るだろうか。
そういう学校できちんと規則正しく過ごしてきたような子供ほど、成績も教師の覚えもめでたく、大学へ行って教師や上司と言われるような人になるのだろうと思うと、教育の堂々巡りというものに虚脱感を感じてしまう。

 

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